クリント・イーストウッドが偏屈老人を演じたドラマティック映画、Gran Torinoをレビュー及び 評価、感想、解説、考察。
あらすじ
ウォルト・コワルスキーは妻を亡くした。
ある日隣家のアジア系一家と関わりを持ったウォルト。つまらない小競り合いで自宅の手入れした芝生に踏み入れられた彼は、ライフルでその場の全員を退かせたのだ。
そんなつもりは毛頭なかったが、結果的に助けた隣人の家族から翌日より、大層なお礼ともてなしが始まった。
他人、特にアジア人との関わりを拒みたいウォルトだったのだが、彼らは毎日のように芝生に飾りを添え、玄関に豪華な食事を置いていく。
次第に、意固地なウォルトの心が少しずつほぐれていく。隣人との触れ合いで、忘れていた感覚が甦りだした。
ウォルト・コワルスキー

元フォードの自動車工。それ以前は朝鮮出兵の過去がある。
引退した今では日がな一日ビールを飲み、通りを眺め、芝生の手入れをしたら車を磨く。
似たような性格の友人らとバーに集まっては、ひたすら悪態をつくのもルーティンワークのようだ。
口が悪くて怒りっぽく、差別や偏見も激しい。おおよそ「なにもかもが気に入らない」。
二人の息子とその家族にも心を許せないでいる。
自分の性格については自覚があるのだが、それを改善しようという気にはならないようだ。
無き妻は彼の短所を補うような素晴らしい良妻であったらしい。
スー

隣家住人の長女。モン族の一員だ。英語は堪能で、部族の中ではかなり先進的な部類である。
弟を助けられて以降、なにかとウォルトに世話を焼きたがる。初めは嫌がっていた彼だが、次第にスーの人柄を理解し出す。
タオ

スーの弟。気弱で臆病な性格で、近所の同族ギャングにしょっちゅうちょっかいをかけられる。
ギャングらの唆しによりウォルトのガレージへ盗みに入ってしまう。
その償いの為にウォルトの下でただ働きを願い出る。
根性なしの男に苛立ちを隠せなかったウォルトだったが、次第に変わりつつあるタオに、彼は誇らしさを感じ出していた。
ネタバレ概略
- 1.死別妻が死んだ。長年連れ添った最愛の女は、自分には勿体ないぐらいの良妻だったとウォルトは顧みた。
が、教会で執り行った葬儀の際も、孫の装いや息子夫婦の態度など、とにかくあらゆるものがウォルトには気に入らない。 - 2.悪事隣家の息子タオの従兄であるフォンは、彼を仲間に引き入れようと悪さを強要する。
そこで狙いをつけたのは、ウォルトがガレージに仕舞い込んだ愛車、グラン・トリノだった。 - 3.泥棒グラン・トリノを盗みにガレージへ忍び込むタオ。しかしウォルトはこれに気付き、ライフルを持って彼を追い払った。
- 4.庭タオにしつこく絡むフォンは、家の前で仲間を引き連れて騒ぎを起こす。
自宅の庭に踏み入られたウォルトは、ライフルを持ってギャングらを制圧する。 - 5.謝礼翌日から、隣家の一族の過剰な接待が始まる。四六時中花を供えては、料理を玄関先に置いていく一同。
困り果てたウォルトは断ろうとするのだが、そもそも言葉が通じない者が大半だった。 - 6.人種白人のボーイフレンドと道を歩いていた隣家の娘スーは、黒人の不良に絡まれる。腰抜けの彼氏は成り行きを見守るだけだった。
たまたまトラックで通りかかったウォルトは、銃を見せつけて彼女を救った。 - 7.施設息子夫婦が家を訪ねて来た。珍しい行動に訝しく思うと、彼らは言外にウォルトを老人ホームに送り込み、家を奪い取ろうと目論んでいた。
頭に来た彼は、夫妻を叩き出した。 - 8.パーティ隣家のスーが訪ねて来て、ウォルトを彼らの一族=モン族のパーティに誘った。
気まぐれで参加してみたウォルトは、今まで軽んじていたはずの黄色人種の集いに、不思議と安らぎを感じることに。 - 9.贖罪グラン・トリノを盗もうとしたタオに償いをさせるため、ウォルトのもとでただ働きをさせるとスーは言う。
“腰抜けのトロ助”を必要ないと断ったウォルトだったが、半ば無理矢理に彼を使わされることになった。 - 10.修理屋自宅には手を入れられたくないウォルトだが、そこで思い付きがあった。
周囲の家の壊れた屋根や塀などを、タオに直させるというものだった。
近所の悩み事を受け付けては、それをタオに修復させる日々がしばし続いた。 - 11.男前タオを次第に気にかけるようになったウォルト。
彼に建設現場の仕事を斡旋するため、男らしさを鍛えようと街を連れ回すことにした。 - 12.仕事友人の現場へタオを紹介しに向かったウォルト。
現場監督のティムは彼を気に入り、とんとん拍子に雇用の約束を取り付けることに。 - 13.従兄ある日仕事の帰り道、従兄のフォンが再びタオに絡む。
彼らはウォルトに借りた工具を壊し、タオをひどく殴りつけた。 - 14.脅しギャングの住まいを見つけたウォルト。
メンバーのひとりを捕まえて殴りつけると、隣家の一家に手出ししないように脅迫したのだった。 - 15.襲撃隣家にサブマシンガンを撃ちこむギャング。幸い死人こそ出なかったものの、ウォルトの行動は、火に油を注いでしまったのだ。
更にスーは酷い暴行を受けて帰されることになり、ウォルトとタオは無力感に打ちのめされることになった。 - 16.復讐フォンらギャングが居る限り、隣家一家に平穏な日々は訪れない。
ウォルトとタオは各々心に復讐を誓った。 - 17.単騎やる気に満ち溢れるタオ。ウォルトは彼を自宅の地下室に呼ぶと、そこへ彼を閉じ込めた。
自分一人で、全てのケリをつけると。 - 18.丸腰夜間ギャングの家に赴いたウォルト。彼が懐に手を伸ばしたのを見、ギャングたちはいっせいに発砲、ウォルトを撃ち殺した。
彼の手には、ライターが握られていただけだった。 - 19.通報通報した付近住民によって、ギャングメンバーの全員が逮捕される。
丸腰の老人を一方的に殺したことで、長期刑は免れない見込みになるそうだ。
現場に急いだタオとスーは、年の離れた最高の友人の亡骸を見て涙を浮かべる。 - 20.遺書死を予見したウォルトによる遺書が代理人から読み上げられる。
誰もが狙ったグラン・トリノの所有権は、隣家のモン族、タオに指名される。
意固地なじいさんとのふれあい

ウォルトは本当に口が悪い。従軍経験が彼の口調を変えさせたのかは不明だが、それにしても悪態が止まらない。
ふた言めには「タマなし」「米食い虫」「トロ助」「意気地なし」。
大概の相手はこう言われては話す気も失せる。それが要点を突いていれば尚更。
スーとタオが彼を変えつつあった。嫌いなはずの黄色人種に世話を焼かれ、世話を焼き、食卓を囲んで。血の繋がらない孫のような、年の離れた友人のような。ストーリーの見どころはここにある。
床屋シーンは映画史に残るクールなワンカット

口の悪い同士のジョークは時に笑いを誘う。気が合う者たちならではの、内輪の挨拶だ。
床屋にタオを連れてくるシーンでは大笑いさせられた。バカバカしくて笑えて、ほんの少し誇らしい気分にさせられるだろう。
タフを自称する男同士の会話はいかにもカントリー感が溢れており、都会で使えば鼻つまみ者にされることうけあい。
この辺りはかなりイーストウッド節が感じられる。
グラン・トリノとは

主題であるグラン・トリノとはこのフォード製クラシックカーを指す。
ウォルトは非常に良くこの愛車を手入れしており、自動車工としての現役時代の誇りと考えているようだ。
友人らはことあるごとにこの名車を寄越せ、と冗談を言い、また口にはせぬが、彼の親族らも内心ではこの遺産を受け継ぐことに興味を示しているようである。
エンディングで流れる「グラン・トリノ」という題を表した楽曲も印象深い。
評価
笑いあり、涙あり。生き方を、そして死に方すらも考えさせられる作品であった。
万人向けの映画と推してもなんら間違いのない一作だ。
以下、考察及びネタバレ注意。
ウォルトの性格を形成した出来事

ウォルトが出兵した頃にはPTSDなどという言葉はまだ無かった。
彼の言葉通り、抵抗する気もない若者の顔を撃って殺したことでウォルトは拭えないトラウマを背負った。
昨今多くのイラク兵を描いた作品では、戦地から本土へ戻っても心だけは戦場に残り続ける描写があり、また現実の問題でもある。
ウォルトの心もまた、1952年のあの日のアジアに置いてきてしまった。
本当ならカウンセラーの診療を受けるべき傷だが、当時のアメリカ、及び世界中の軍隊ではそれほど内面のケアは重要視されていなかった。
隣家のモン族を嫌ったのは一見差別に見えて、その実自己防衛だった。
フラッシュバックする光景を脳裏によぎらせては、眠れぬ夜を過ごしたのだろうか。
なぜギャングを撃たなかった?

ウォルトはラストシーンで、銃を持たぬことを選択した。
丸腰の男を一方的に惨殺したとなれば、例え初犯の物でも長期刑は免れない。
ギャングを一掃するための最良の手段ではあったものの、ではどうして彼は、タオが望んだように全員を葬るという選択をしなかったのだろうか?
勝てないから?
答えはNOだろう。スーが不良三人に絡まれている時、彼は老いを感じさせぬ凄みで不良たちを退かせた。
これは従軍経験のあるウォルトの手腕が錆びついていないことの示唆であり、また実際隠密でギャングたちの不意をつけたことは窓越しに描写されている。
彼が本気で皆殺しにしようと考えれば、悪くても相打ちには持ち込めたと思う。
死を望んだ?
ある意味では正解の一端だろう。病魔の足音と、過去の贖罪。一石三鳥で事態を収束させる、彼らしいやり方だ。
もう誰も殺したくなかった?
そう思う。相手がどんな悪たれであれ、もう二度と殺しの螺旋に足を踏み入れることを彼は拒んだ。
スーとタオに、罪悪感を植え付けたくなかった?
彼らは今でこそ従兄の死を望んでいるが、いずれそれは風化する。
そして後に残るのは、同じ血を分けた親族を隣人の手を借りて葬ったという罪悪感だけだ。
老練な彼らしい、先を見越した采配だったと感じる。
終わりに
これはクリント・イーストウッドでなければ成立しない映画だ。彼の渾身のすべてがスクリーンに表現されていると感じる。
本当に素晴らしい映画をありがとう。

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