奇妙な家族の縁を描いたヒューマン映画、Shopliftersをレビュー及び 評価、感想、解説、考察。
あらすじ
ある冬の晩、アパートのベランダで膝を抱える少女を治、祥太の父子は発見する。ひと目見て虐待を受けているとおぼしき彼女を治は連れ帰ると、同居する家族らに相談することとした。
父、母、祖母、長女、長男。彼らの誰しもが特に大事には捉えず、ひとまずは少女の希望もあって、その粗末なあばら家で暮らすことになった。
深く考えることもなく保護したその少女はユリと名乗り、そうして奇妙な誘拐生活が始まった。
彼らの大半は勤め先こそあるものの、店先の窃盗、いわゆる万引きを副業としている。これは彼らが家族であり続けるための証のような一面を持ち、それはユリですら同じことだった。
日々妹へ盗みのテクニックを伝える祥太。だが彼の中には、拭いきれない罪悪感が芽を吹き始めていた。
万引き

タイトルでもある万引き。家族の大半がこれに手を染めており、そこかしこで盗みを働く。
スーパー、勤め先のクリーニング店、パチンコ屋、駄菓子屋などなど。
二人一組でスクリーニングにより監視の目を遮断すると、手早く品物をかっぱらう。
慣れた手つきで行われるこれらに、相当の場数と経験を感じさせられる。彼らにとってこれは度胸試しやゲーム感覚でなく、生業なのだと理解するだろう。
しかし額面通りに万引きを物語の芯と捉えるのは早計だ。真に訴えるのはその部分でなく、家族の定義や血縁の持つ因果、個々人で感じる幸せの違いを考えるべきストーリーだと思う。
無論、彼らの行為を肯定するのは法治国家としてあるまじき行為だ。しかし新聞の見出しで安物の真実を読むような浅く狭い了見では、裏側に隠れた本当の問題に触れることはないと作品が訴えている。
作中では是非を提示しない。あくまで提起するのみだ。これを受け取った我々がどう感じるかは、各々で全く異なるだろう。
自然体

日本語ははっきりしない言語だ。英語でも、同じ言葉でもシチュエーションによって全く違う意味合いを含む単語は多々ある。しかし日本語のはっきりしない歯切れと汎用性の高すぎる文句の使い分けはしばしば、第二言語として日本語を学ぶ者を惑わせる。
これはデメリットだけでなく、メリットにもなる。はっきりしない歯切れともにゃもにゃっ、とした口調は自然体を感じるに充分以上の働きを見せ、彼らが演技していることすら忘れさせるだろう。
まるで隣三軒近所の様子を見ているような、不思議な空気感。特に樹木希林の見せるトボけたバアさんぶりには、老練で狡猾な腕前の片鱗が見え隠れする。
読み解くべきは

ご丁寧なモノローグや注釈は排されている。断片的な会話や仕草をひとつずつ汲み取っては、この疑似家族を繋ぐ絆の正体を見極めることこそが、我々に課された課題である。
前知識一切ナシで見始めた方でも、序盤のあたりで彼らが血縁で結ばれていない間柄であることは推察可能だろう。ではその過去に、いったい何があったのか?
作中のテーマから感じるものの他に、こういった背景を洗っていく楽しみが仕掛けられている。推理好きには良いエッセンスになるだろう。
一方で特定のある人物のみ、作中のエビデンスから結びつきを読み解くことがどうしても困難な者が居る。この部分に関しては設定があることは間違いないのだが、やや示されるヒントに欠けた。若干の消化不良と思わざるを得ない。
政治的思想?
本作については内容が、
というイメージ拡散が為されたという過去があるらしく(事実かは不明)、これについて左右極論を振りかざす者が争いの火種を手に入れる次第となった。
また監督によるコメントが油を注ぐことにもなり、事態は加熱。穿った目線を持ち、未視聴の時点で作品を毛嫌いする者と崇める者に分かれた。
中には作品を観ることなく騒いでいる者も一定数居ると思われる。
個人的意見だと、作品はリリースされた時点で制作陣の手を離れる。監督という立場ですら、そこに対して後出しの理論をねじ込むことはかなわない。
言うなれば小説のまえがきで「作品の見どころはココです」という作家や、笑いどころを自分で説明するコメディアンのようなものである。
発信者というものは、すべてはコンテンツの中で語る必要があるのだ。
つまりカンヌを受賞しようが、「社会問題に訴えた」という後出しを盛り込もうが、視聴する側がそれを汲み取る必要性は一切無い。
また同じく、作中で一切触れられない政治的思想を無理矢理関連付けることも不躾である。
更に作品が民族性を代弁するというのも、まったくのお笑い種だ。
これが通用するならばアメリカ人は、
週に二回はドアを蹴破るFBIに捕縛されライカーズ島で司法取引を交わしては、
シャバに出てドラッグとダーティマネーを間一髪で取り返し、
しつこく因縁をつけるロシアンマフィアと廃ビルで最終決戦を行った末に爆破エンド。
これをイメージとして持たれているのだろうか。いやそんなことはない。
そして全世界の映画ファンも同じように、単一の作品で卑しいイメージをその民族に当てはめることはない。
これを行う者は等しく、レイシスト(差別主義者)と呼ばれる。
跋扈する左右レイシズムに惑わされず、作品の枠を超えない範囲を自分の中へ取り込もう。
評価
万人に勧められる一作だ。

以下、考察及びネタバレ注意。
絆の中身
疑似家族を繋ぐ、血縁でない絆を解説しよう。
父:治

実刑を受けたのは治のみであり、共謀した信代をかばって一切の罪を引き受けた様子が見られる。初犯につき、五年の刑だった。
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治は元来、倫理観に欠けた人生を送っていたことが垣間見える。店先の品物をちょろまかすことだけが得意であり、それに罪悪感をおぼえることもない。
祥太とユリにこの技術を伝える意図としては、彼の中の父親像が関係するだろう。
この背景としては、自身の幼少期に父親がろくに構ってくれなかったことが考えられる。
或いはまたその父も、同じように窃盗のイロハを治に伝えたのかもしれない。
また不幸な境遇の子供を保護するのは、性善説や人柄に依るものでなく、不妊症の内縁の妻を気遣ってのことだ。亜紀に妻との性行為に対して消極的でないか、と問われた際にお茶を濁したのも、不妊の事実を慮ったことである。
信代

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作中で親というシンボルにもっとも焦がれたのがこの信代であり、不妊症の身であるために子を欲しがった。治が父親像にこだわるのは、信代に感化された部分が大きいと思われる。
という信念を持ち、それを初枝にも訴えていた。
彼女もまた倫理観に欠け、窃盗や殺人の脅迫、死体遺棄に罪悪感の欠片も見せない。
このシーンで指すのは初枝の死体のことでなく、彼女のパーソナリティそのものを示す。
またこれは疑似家族全員に当てはまる言葉であり、物語を読み解く最大のヒントになった。
すなわち彼ら家族は、
このような認識になる。
「捨てた人は他に居るんじゃないですか」
これらが符合する。
また面会室で祥太の生い立ちにヒントになりそうなことを託したことから、彼女の中では、
という迷いが見えた。
この後祥太がどう選択したかは描かれないが、彼女の出所後に、以前のような関係には戻れないことは明白だ。
亜紀

彼女らの出会いについては明示されないが、初枝側からコンタクトがあったと考えるのが妥当だ。
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彼女の背景として、家庭内での不和が推察されるだろう。妹の名を騙ったことから、両親に優劣を比べられる人生を送っていたと見るのがベターに思われる。
彼女はささやかな復讐として、性サービス店で働き、妹の名を使う。
ラストでは両親が自分の居所を知っていたか勘ぐる場面が見えるが、これは初枝が金を無心に行った際にわざわざ「長女は?」と問うたことから、実際には知らなかったと見るべきだ。
しかしオーストラリア留学から帰省しない娘に、それほど頓着していない部分から若干の闇を感じ取れる。
亜紀もまた、家族から捨てられた者であると実感していたのだろう。
また初枝の前夫についての不倫事実に関してはある程度把握していた節があり、その部分での復讐を助力していたという立ち位置も垣間見える。
初枝

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初枝には息子が居る。これは前夫との子宝であり、しかし作中では登場するそぶりも見えない。
これは博多に居る息子が東京の母親への干渉を避けている示唆であり、初枝は前夫、及び実の息子から捨てられた者であるということになる。
「慰謝料」と称した見舞金をせびる彼女だが、実際にはそれを使い込むことなく大事に箱の中へと保管していた。これは彼女が金銭目的でなく、純粋な復讐心を滾らせていたことを示す。
もしかすると初枝は、ため込んだ見舞金をそっくり亜紀へと渡すつもりだったのかもしれない。
祥太

赤子の頃から倫理観の存在しない家庭で育ったにも関わらず、祥太は盗みや嘘への疑問符を持ち始めた。そして自ら捕まることを選び、家族の過ちを清算しようと試みたのだ。
これは人間性善説、或いは育った環境で人の成り立ちは決まらない、という意図の表れになる。
逆を返せば生まれつき悪い人間は悪いまま育ち、いずれは破滅の末路を辿るという救いようのない理論でもある。
これは治や信代を指す対比表現でもある。
ユリ

疑似家族が壊れて、本当の意味での地獄へと舞い戻ったのはユリだけだろう。
作中で季節が冬から夏へ変わりゆく時、彼女は冒頭からは見せないような明るさを弾けさせた。最も疑似家族の恩恵を受けていたのは他ならぬユリだったのだ。
その変わりぶりからはどんな犯罪者の一家でも、幼児虐待を行う家庭よりはマシに見えてしまう。
是非のある血縁の論議と異なり、幼児虐待に関しては明確なメッセージが込められている。
元々、幼児保護の観点では相当に後進国である日本では、ニュース報道以上に虐げられている子供が多い。
例えばハワイ州では、アパートメントの隣室から子供の叫び声が聞こえただけで通報する。
それで父親が誤認逮捕を受けた例もあるほどだ。
実際に虐待を行っていた事実が判明すれば、起訴及び収監を経て、容易に親権は剥奪されることになる。
このように子供の権利を厳しく隣人が見守る体制は全世界で広がっており、虐待の現場を現行犯としてドアを蹴破る権利も有せない日本は、非常に遅れを取っていると言って過言でない。
ラストシーンで外を眺めて、何かを呟こうとするユリ。
現実では、声無き声を救わねばならない。
終わりに
多くを思考させる物語。
非常に有意義な時間だったと言える。

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