一時話題沸騰となったヒューマン映画、ONE CUT OF THE DEADをレビュー及び評価、感想、解説 、考察。
あらすじ
廃屋でゾンビ映画を撮影するクルー一同。そこに本物のゾンビが現れる、以上。
ネタバレには注意
未見ならば絶対に大筋を知らない方が楽しめる。
この称号すら惜しくない作品だ。
必ず前情報無しで視聴することを推奨する。
以下、考察及びネタバレ注意。
カメラを止めるな、の正しい視聴作法

ある人は「サイコーに面白い!」と言い、
ある人は「こんなにつまらない映画はない!」と言う。
この映画に対する評価がなぜこれほどまでに、二極化しているかを考えてみる。
二部構成
映画は大きく分けて2チャプターに分かれる。
この映画が「つまらない」と言う人々には、以下のような傾向が見られる。
- チャプター1の途中で退場している
- チャプター1に映画的面白さを要求している
- チャプター2の伏線回収を正しく体験出来ていない
特にここで重要なのが、2.の項だ。
結論から言うと、いかにチャプター1を心の中でボロクソにこき下ろせるか、でその後の印象が一変する仕様になっているのだ。
史上最低のホラー映画を模したチャプター1

ホラー、特にソンビ映画を大量に見ている人にとって、チャプター1は壊滅的な出来映えの劣悪作品に映る。
- ゾンビも含めて演技力の無い俳優陣
- 最低の間の取り方
- 回収されない伏線だらけ
- 下手な上に酔いまくるカメラワーク
- 冗長で退屈な隙間の多さ
- ゾンビと魔術を関連付ける闇鍋感
- 最終的に伝えたい感情が意味不明
挙げればキリがない。
しかし部分部分で妙に演技力の映える場面も見える。
「黄色いシャツは自然な演技しているな……」
「このメイク役の座った眼はまあまあ評価出来るか」
しかしこうした要素を差っ引いても、歴代の映画史に名を連ねるような趣には到底至らない。
とにかく最低の出来を地で行くこれらに、耐え切れず途中退場するのも頷けるだろう。
しかしここで、件のキャッチフレーズが活きる。
「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。」
これを心に刻んで、ひとまずは映画を見続けることが求められる。
そしてここで重要なのが、心の中でありったけの罵詈雑言を浮かべることである。
映画が終わったら凄まじい勢いで悪評をばら撒いてやろう、とほくそ笑むぐらいがちょうどいい。
ともかく目に付いた気に入らない要素を片っ端から並べ立て、悪態をつく。
「世間で言われるほど話題を賑わす映画じゃない。私ほどの映画通にはこんな子供騙しは通用しないぞ」
「ここがダメ、あそこもダメ。数える指が足りないくらい、悪い要素がそこらじゅうに見える」
チャプター1にまともな面白さを求めるのは誤りだ。
何故かと言えば、意図してつまらなく、酷すぎる出来に仕上げているのだから。
逆に、(居ないとは思うが)チャプター1の段階で「まあまあ楽しめた」という感想を持つのも危うい。
この時点で映画に対して持つべき感情はマイナス一択であり、プラスであったりフラットにキャリブレーションすることで、逆にチャプター2で味わう最高の体験を失う要因になるのだ。
まずはチャプター1の、その圧倒的つまらなさを認めた上で、今度はそれを批評する姿勢にシフトせねばならない。
純真無垢な気持ちを捨て、映画の寸評を垂れる批評家になり切ろう。
この斜に構えた姿勢こそ、のちのちに圧倒的な恥じらいと喜びをもたらすエッセンスなのだ。
長回しを褒めると赤っ恥
口コミで聞き及んだことも多いだろうが、
この部分へのフォーカスだ。
しかし前述したようにチャプター1は意図してつまらなく、酷い出来映えにしている。
つまりこの部分を本作がウリにしているという解釈は誤りだ。
付随して、作中の長回しの技術や妙技を褒めれば褒めるほど、顔から火が出るような恥をかくことになる。
比喩するなら、「利き手と逆で書き殴った戯れの絵画を、前衛的と褒めちぎって大金を支払うコレクター」
この箇所の”恥”はタイトルで銘打った部分とまるで異なり、作中で回収されることのないファクターになる。
あまり人に言いふらさないように気を付けるのを勧める。
多重構造を現したチャプター2

チャプター1のラストではこれがひとつの作品であったことが判明する。
そして時間は、約一か月前に遡った。
これにより、
この三重構造が判明する。
よってチャプター1で起きた、
- カメラのレンズを拭く
- 監督役がカメラに向かって「撮影は続行だ!」と言う
この場面で示唆された第四の壁演出がミスリードであり、実際には観客への間にもう一層が隔てられていることが明らかにもなった。
(実際にはカメラの血のりは偶発的事故だったらしい。しかし幸運にも、多重構造を表す上で味のある演出へと昇華した)
しかしこの段にあっても、我々にチャプター1で付されたフラストレーションは霧散しない。
それも当然で、今どきメタ演出がひとつ加わろうと、軽々に逆転劇が起こらないことを数多の作品群から学んでいるからだ。
撮影の背景を描写

撮影一か月前からの、クルー含めた人物らの人間模様が始まる。
ここから急速に自然な演技力を見せる俳優らに、チャプター1のイモ演技が道化たものであったことを知ることになる。
とっくに積みあがっていたはずのメソッドは再構築され始めるものの、まだ「カメラを止めるな」に対しての印象は覆ることはない。
また作品のジャンルも依然として不透明なまま。
大きく笑いを誘うようなこともなければ、当然ホラーやスリラーとしての要素も消えた。
最終的に”喚起したい感情”が不明なままに進んでいく映画に一抹の不安を抱えつつも、ひとまずは視聴を続けることを余儀なくされるだろう。
なぜなら、
「最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。」
不安過ぎるリハ

- 一体感の見えない俳優ら
- ロクに練られていない台本
- 大味なパブリッシャー
- 数字の取れない予感
先行きの不安なリハが続き、どう見ても駄作の予感をはらませる。
チャプター1の仕上がりは、なるべくしてなったと言うべきか。
アル中、注文の細かい演者、現場でイチャつく俳優ら。
こんなクルーで、昼帯とはいえ生放送を完遂出来るのだろうか。
ここでふと、奇妙な感覚を覚えるだろうか?
あれだけこき下ろしたチャプター1の酷い映画に対して、まるで自身が行く末を案じるかのような思いを抱いていることに。
案の定、トラブった

酒を呑み、硬水を飲み、事故った。
撮影開始直前にして、無いはずはない、と思っていたトラブルがやはり降りかかる。
もうここまで来ると場当たりでこなすほかない。
あるものを駆使し、繋ぎ合わせ、辻褄をゴリ押しで溶接する。
元女優の妻、監督志望の娘。意図せず発揮される家族の絆に、なんだかわけのわからない熱いパッションがふつふつと湧き上がってくる。
なるようになれ、撮り切るのだ!
段々と心の中に、「史上最低のホラー作品をつつがなく撮影したい」、という気持ちの共有が生まれていることに、貴方は気付いているだろうか?
撮影の裏側

ここで我々がチャプター1視聴時に、
こうした思いを抱いた部分の真相が明らかになる。
- 突如悪くなるカメラワーク
- 消えた黄色シャツ
- 納屋で足だけ見えたゾンビ
- 妙にちぐはぐな会話
- 都合良く現れる斧
- 起き上がってすぐに死んだメイク役
- etc…
氷解する真実と、そこへ抱いた無粋な批判。
つまりおよそ我々の指摘するであろう全ての下馬評は、前もって制作側に見抜かれていたことになる。
まんまと罠にかかったわけだ。
したり顔で鬼の首をとったつもりが、実際は釈迦の手の上で未熟な説法を唱えていたことになる。
恥じらいと、奇妙な爽快感。単純な伏線回収とはまた一味異なった、見事なからくりを見せつけられる。
チャプター1で文句を言えたぶんだけ、面白くなる
大きな評価の分かれ目はここにある。
本作のチャプター1で構築した伏線は、一般的に言ってそれほど巧妙なトリックを用いていない。
ここでポイントなのは、伏線はシナリオ上で配置したギミックのみならず、自らが抱いた感情も含まれる、ということだ。
チャプター1でマイナスの要素を多く見つけるほど、それが回収された時の相乗効果は爆発的に上がる。
このタイトルが、ここで回収される。
いつのまにか

いつしかバラバラだったクルーたちは一丸となり、最低につまらないホラー作品を最高の熱量で手がけていく。
巻き起こるトラブルに屈せず、また信念を曲げそうになっても堪えるのだ。
特に最高の伏線回収となった上記シーン。
娘の写真を見て震えを収めるアル中から、組体操のクレーンカメラ。
繋がりようもなさそうなか細い道筋が一気に拡がる、えも言われぬ至福感。
もうゴミ映画を観て悪態をついていた過去の自分は居ない。
昼帯の生放送を悪戦苦闘する彼らに、いつの間にか惜しみないエールを贈っているのだ。
一員へと
もう自覚している頃合いかもしれない。
我々はいつしか、
↓
ここへ立ち位置をシフトされている。
驚くほどシームレスに行われるこの作業は、ややもすると気付き辛い。
エンディングで味わう圧倒的な「やりきった感」の正体は、「彼らとの一体感」、つまりは成功体験に他ならない。
疑似的に成功体験を味わって、面白くないはずがない。
謎の達成感

ONE CUT OF THE DEADのクルーへと化した我々。
ラストシーンでは壊れたクレーンカメラの代用で、急遽人間ピラミッドを作成。
見事に俯瞰の画が撮られることになった。
ここでワンシーンだけを切り取ると、バカらしい遊びにしか見えない。
またチャプター1をすっ飛ばしてチャプター2だけを観ても、同じ感想は得られないだろう。
ここでの達成感は、冒頭から抱いたマイナスの感情を一気にプラスへ転じさせることで起きている。
そういう意味では、やはりチャプター1で罵詈雑言を思い浮かべた人ほど、感慨深いエンディングを迎えることが可能になるのだ。
通常、映画作品は観客の印象を敢えてマイナスには振らせることはしない。それが評価に直結すると知っているからだ。
また一度下降した印象は覆り辛く、ややもすると途中退場を誘発してしまう。
しかし本作はそうしたタブーを見事打ち破った。
敢えて下げてからの、上げ。
大の大人が作り上げた人間ピラミッドに、想像以上の感動を得るのはこうした背景からだ。
ここで「カメラを止めるな!」が伝えたい感情が完全に顕現する。
それは”喜び”である。
文化祭感覚に近い

何をどう足掻いても、彼らが昼帯で生放送したONE CUT OF THE DEADがゴミ作品であることに変わりはない。
その前提を覆してしまうと、クライマックスシーンにて生まれた感情を自ら唾棄するに等しい。
このゴミ番組が我々の当初抱いた感想と同じく、お茶の間の視聴者に痛烈批判されることは想像に難くない。
或いはそもそも、誰か見ていた者が居たのかすらも怪しいだろう。
さんざん苦労して作り上げた作品は報われず、クルーたちが評価されることもない。
しかしこうした事実が容易に予想出来たとして、じゃあそれが何だというのだ?
世知辛い未来が待っていたとして、それが彼らの最高に良い笑顔を歪めることが出来ようか?
この代え難い達成感に勝るものなど、そうそうあると言えるのか?
メチャクチャ良い顔で笑う彼らを見て、はたと気付いたことがある。
不思議な既視感の正体を見た。
よくぞ用意した、エンドロールの裏映像

第三のカメラとして、チャプター1撮影風景を追ったエンドロールの映像集。
これがまた、クルーの一員感を加速させることになる。
チャプター2と違う部分を探すのも一興だろう。
また最終の俯瞰場面で、クレーンカメラを実際に使用しないのに感銘を受けた。
脚立で不確かな揺れを再現する、こだわりの強さ。
思いがけず笑みがこぼれそうな、嬉しいエンディングに称賛を贈りたい。
評価
前評判に偽り無し。
ただし心根が真っすぐな人だったり、子供には向かない一面もある。
真の意味で作品を理解出来るのは、割かし映画慣れした玄人志向な部分は否めないだろう。
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