衝撃的なラストシーンで当時話題となったサイコスリラー映画、SEVENをレビュー及び評価、感想、解説 、考察。
あらすじ
異動したての勤務になったデビッドは、熟年の刑事ウィリアムと共に検分にあたる。
胃が裂ける寸前まで食事を強要された男の死因は、紛れもなく過食によるものだった。
翌日は弁護士が殺された。床には血のりで、”GREED”(強欲)と。
ウィリアムは奇妙な感覚に従い、一件目の被害者の部屋を調べた。すると冷蔵庫の裏には、”GLUTTONY”(大食)の文字が。
強欲、大食。七つの大罪。
二件を関連性のある事件と捉えたウィリアム。少なくとも、あと五件の被害者が出るだろう、と。
必死で手がかりを追う二人だが、犯行のペースはそれを上回る。
そして五件目の被害者が出たところで、事件は思わぬ方向へシフトしていき……。
古き良きバディ・システム

どんな時代も犯罪サスペンスを描くに、これほどの黄金律は存在しないのでないか。
かく言う本作も見事なコンビネーションが眩しい。
相棒システムでは定番として、互いに自らの足りない部分を、相棒の姿に感化されて成長することが多い。
デビッドは”知識”を、ウィリアムは”かつての情熱”を手に入れることになる。
しかしこうした旧いシステムを使いつつも、相反するセンセーショナルなシナリオが特徴的になる。
現代でこそ猟奇的なサイコキラーをテーマにした作品は増えたが、当時の衝撃感は凄まじかったのだ。
その報われないエンディングに、胸を悪くする者があとを絶たなかったという。
グロテスクな死に様

冒頭の”大食”をはじめ、被害者は誰もが悲惨な死に方を見せる。
そのショッキングなたたずまいは、ゴア耐性の無い者を容赦なくふるい落とすだろう。
中でも最大の恐怖シーンは、画像の男”SLOTH”(怠惰)であろう。
まさか彼が存命であろうとは、初見で思うまい。
圧倒的無慈悲を見せつける犯人の、恐るべき執念によって生きた屍とされた憐れな被害者。
医師の語る、
この言葉の、なんと残酷なことか。
吐き気を催すような惨死を、天才的な天啓でもって書き留めたアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。
もっとも恐るべきは、彼の脳内かもしれない。
冷たいアメリカ

作中に漂う、陰気で憂鬱な街の気配。正義の追求よりも、目を瞑る方が賢いと知ってしまったウィリアム。
脚本家は執筆当時、NYでこうした街の雰囲気を毎日のように感じており、その無関心で冷たい人々の心を大層嫌ったそうだ。
その骨頂たる演出が、ジョン・ドゥが自ら警察署に出頭する場面だ。
彼は血しぶきのおびただしいシャツをまとったまま、その足でデビッドとウィリアムを呼び止める。
驚くべきは、彼を乗せたタクシードライバーも、街中の通行人も、果ては警察署内の職員でさえも。
彼らは誰ひとりとして、ジョン・ドゥが大声を上げるまでは異変に気付きすらしない。
全く素知らぬそぶりで、視線の端にすら殺人鬼の姿を捉えようとはしないのだ。
これは独自性と個の権利を強く追及したアメリカの弊害を記したような、印象的で強烈な場面だ。
映さない残酷さ

生首入りの段ボールには、当時強烈な衝撃があった。
ちなみにこの部分は映像としては映されておらず、ネット上に出回っているものはフェイクになる。
恐らく多くの映画制作、とくにホラー作であればここで彼女の首を一部、あるいは全部分を描写しただろう。
しかし本作ではあくまで観客の想像力に訴えかけた。
これは過度なゴアや悲劇的なシーンとなることを忌避したというよりも、筆者は真逆に感じた。
人間のイマジネーションは時に恐るべきものを生む。
枯れ尾花が幽霊に見えることや、妄執に憑りつかれて自壊するケースもある。
箱の中の彼女が、どんな無残な状態であるか。
はみ出した血のりから、我々は想像し得る最悪の状況を思い浮かべるだろう。
その中には悲劇、恐怖、取り返しのつかない悔恨が詰まっている。
彼女の死に顔は、どんな表情だったのか。全ては視聴者に委ねられている。
評価
未見ならば要チェックの一作。

以下、考察及びネタバレ注意。
デビッドとウィリアムの信念
大きな謎を秘めたジョン・ドゥを考察するには、前提として彼を捕らえたふたりの刑事の信念を明らかにする必要がある。
これにより、一見して刑事と加害者という立ち位置でしかなかった三者の風景が一変することになる。
デビッドの信念

デビッドを紐解く。
なぜ街に来た?
冒頭でウィリアムに問われるが、彼はこれをはぐらかした。
これは最後まで明かされることはなかったが、いくつか推察は可能だろう。
決して好きな街だから赴任を願ったわけではない。
地下鉄が通るたび揺れるアパートメントや、妻の心情吐露の場面でも補完されている。
随所で見られるように、デビッドは捜査への情熱度が高い。
街に蔓延る犯罪に諦観を漂わせるウィリアムとは対照的に、青臭い正義論と自覚しつつも、正しいことへの追求を諦めなかった。
バーでの論議の場面がもっとも彼の心中を表している。
すなわち彼は、
これが正しいだろう。
無関心への想い
また「無関心」についての議論では、
こう説いた。
これは表向きには無関心であるかのような振る舞いに見えて、実態は異なる。
この部分では、互いに焦点を当てている部分が微妙に異なっているからだ。
デビッドの中では、”犯罪への無関心”を語り、ウィリアムは”日常の無関心”を語っている。
つまり意見が対立したように見えて、実際には”犯罪に対しては”同意見だったのだ。
ウィリアムの信念

ウィリアムの信念を紐解こう。
諦観への過程
冒頭で、子供を気遣うシーンが印象的だ。
応える警官は、「今さらそんなことを、この街で気にするな」と言う。
これらから、かつてはウィリアムも新しい相棒のように、義憤に燃える魂を有していたことを推し量るのは容易い。
そしてその情熱が、未だ完全には燃え尽きていないことも。
世の中は最悪だ
かつては犯罪の撲滅を志したと思われるウィリアム。
しかし繰り返される悲劇と絶望に、彼の心はすり減った。
バーでデビッドに言われた言葉は、深く胸に刺さっただろう。なぜなら、図星だったから。
無関心への想い
彼自身が無関心であろうと思っても、そうしないことが最良だと理解している。
これはバーでの会話で明白になった。
前述したように、その根底でデビッドとウィリアムは繋がっているのだ。
この共通理念はのちに、背景を読み解くヒントになる。
再び燃える
結末ののち、ウィリアムは再び決意する。
老いた刑事も、まだ隠居には早い。
トレイシーの決断

副次的だが、デビッドの妻、トレイシーの決断についてもクライマックスシーンでは明らかになる。
ウィリアムは、
こうアドバイスした。
そしてラストでデビッドは彼女の妊娠を知らず、つまりここでトレイシーの決断が自動的に窺い知れることになった。
この背後関係について認知しているのはウィリアムのみであり、デビッドにとっては知らぬが仏の事実だ。仮にそれを知ってしまえば、二重三重苦に身を焼かれることになっただろう。
ジョン・ドゥの目的

七つの大罪をなぞらえて、罪人を罰したジョン・ドゥ。
ではその先にある、彼の目的はいかなるものだったのか?
七人を殺すことが目的ではない
大食らいも、怠惰な者も、色欲に溺れては強欲に身を滅ぼす者も。
実質的には、これら大罪とされた欲望をはべらせた人々は数知れない。ジョン・ドゥがこうした者たちへ天罰を与えるつもりで殺人を犯すのであれば、七人ではきかないのは目に見えるだろう。
ではこれは警句なのか?同じような罪人にならぬよう、己を律した生活を心掛けろと?
この言葉に解答が込められている。
すなわち、インパクトの問題だ。
もっとオブラートに包んだやり方を知ってはいるものの、それでは心に刺さらないという言い回し。
この台詞からは殺人が手段でしかなく、その先にある明確なビジョンが明らかになるだろう。
ソドムの住民
七つの大罪人を見せしめに殺すことで、上記に当てはまる人々への警鐘を鳴らすことを目的としていたのは明らかになった。
ではこの、”普通にある人々の罪”とは何だろうか。
ヒントは、後述する彼の言にある。
- ソドムの住民(ソドムの住人)とは?
創世記19章では天使を襲おうと目論んだ。
記される書によってソドムの住人の罪は諸説ある。が、ここでジョン・ドゥが指したのは主に以下の事柄になる。
見よ、あなたの妹ソドムの罪はこれである。すなわち彼女と、その娘たちは高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、彼らは、乏しい者と貧しい者を助けなかった。
MontyGlyconログ
”乏しい者と貧しい者を助けなかった”
この言葉に、作中でデビッドとウィリアムがバーで交わした議論を思い出さないだろうか?
そう、作品のテーマでもある「無関心」を指しているのだ。
罪に無関心なことは、等しく罪である
この図式が見えた。ジョン・ドゥの最終目標は、咎人への自覚を促すことだった。
しかしこの思惑が見えたところで、奇妙な符合に気付くだろうか?
そう、ふたりの刑事もまた、同じような信念を抱いてはいなかっただろうか?
同じ本質を抱いた三者
驚くべきことに、忌み嫌ったサイコキラーの根底には、ふたりの刑事と同じ信念が宿っていた。
彼らの違いは単に「手段」の違いでしかなく、志す理想郷の姿は同一だったのだ。
この事実を認識しているのは、恐らくジョン・ドゥのみだ。
彼は「理解しにくいだろうが」と前置いたように、容易には受け入れられないことを悟っていた。
それは本質的に同じ概念を持つ、デビッドとウィリアムも同様。
ジョン・ドゥはデビッドを指してこう言った。
手段が違えど、無関心な世の中を変えたい思いを共有していることを理解していたということになろう。
この悲劇的な事実は、あまりにも痛々しい皮肉になる。
刑事らがそれに作中で気付くことがなかったのは、不幸中の幸いと言えるだろう。
ラストシーンのその後

彼らのその後を推測しよう。
ウィリアムのその後
彼はモノローグで語るように、現役を続行する意思を見せた。
ジョン・ドゥのその後
凄惨な犯行を非難されるとともに、一方で彼の権利を擁護したり、そのカルト的な一面を理解して賛同する者が現れる。
殺害時のポイントとして、
これが重要な分岐になった。ジョン・ドゥは意図してあの場面で、膝を折ってデビッドを見上げたのだ。
一般的に膝をついて頭を撃ち抜かれるというのは、最も残酷な処刑行為を受けたと判断される。
これは戦時下であっても同じことで、例えば長距離射撃のヘッドショットで300m先の脅威になる敵国兵士を倒したとする。この場合でもアメリカは、徹底的な現場検証と聞き取り調査を行うのだ。
仮に至近距離で発砲した痕跡が見られ、これが処刑行為と判断されるとする。
その場合、それを行った兵士は厳しく罰せられる。或いはマスコミに漏れた時には、「人権を蔑ろにした悪逆非道な行為」として大々的に報じられることになる。
日本人のイメージだと、床や地面に足の裏以外をつけることは違和感がないが、欧米諸国ではそれは大きく異なるのだ。
話を映画に戻す。
ジョン・ドゥが処刑を受けたことは、裁判を通さない私刑であるとか、警察の越権というイメージを遥かに凌駕する。
彼の権利を声高に叫ぶ者は日増しに増え、カルト的なムーブメントを起こすだろう。
そしていずれは、彼の理念を理解する者が現れる。
デビッドのその後
結論から言うと、
この説が大きく有力だ。
七つの大罪ルール
怠惰の男を除いて、ジョン・ドゥはターゲットの全てを葬ってきた。
だが怠惰の男も、脳は軟化し、ひとりで立ち上がることもままならない。
またこの先も、地獄の苦しみを味わう未来しか持ち得なく、死んでいたほうがまだ救いがあっただろう。証としては、自ら舌を噛んだ痕跡が残っている。
ジョン・ドゥは自らに”ENVY”(嫉妬)の罪を認めた。
そして銃弾を乞い、後世のための自己犠牲を完遂する。
ではなぜデビッドのみ、”WRATH”(憤怒)の裁きを受けなかったのか?
いや或いは、これから受けるとしたら?
布石
ジョン・ドゥの語ったこれは単純な挑発でなく、また意趣返しでもない。
明確に”ある効果”を狙った、のちのちへの布石である。
憤怒
妻を殺され、殺した相手を殺し。
デビッドの中に鬱積する憤怒は、これで一件落着だろうか?
もはや彼には復讐する相手も居なく、有り余る怒りをはけ口にする対象を完全に失う。
その状態でいずれ感情の向かう矛先は、自分自身以外に無い。
そう、ジョン・ドゥの示したデビッドの大罪とは、目の前のサイコキラーへの怒りではない。
妻を救えず、また自制出来ずにジョン・ドゥを殺害してしまった、自分自身への憤怒なのだ。
つまり未だ、彼の大罪は顕現していない。
これよりのち、圧倒的な絶望の中で生まれていくものになるのである。
前項でジョン・ドゥの語った、「鏡を見るたび、思い出すがいい」
これは自己嫌悪で底なし沼へ落ちるよう、前もって仕向けた茨の罠だ。
自殺
自宅の鏡を見るたび、ラストシーンで見せたあの表情を浮かべながら、何度も引き金に指をかけては思いとどまる日々。
やがていずれその日は来るだろう。
終わりに
悲劇は終わっていないと考えると、この論もあながち当て推量の域ではないだろう。
七つの魂は永遠に救われない。

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