呪われたゲームに翻弄される男女を描いたスリラー作品、Truth or Dareをレビュー及び 評価、感想、解説。
あらすじ
学生生活の思い出にメキシコ旅行に出かけたオリヴィアらは、アメリカへの帰国前最後の夜にカーターという男と出会う。
彼の誘いで朽ちた教会でビールをあおる彼らに、余興としてカーターは「真実か挑戦か」ゲームを持ちかけた。
だがおかしなことにゲームをもちかけた張本人であるカーターは、ゲームの途中で青い顔をして教会を後にする。彼は去り際に妙なことを口走っていた。
「これは本物のゲームだ。逃げることは出来ない。拒否すれば、死ぬぞ」
ゲーム

日本ではあまり馴染みの無いこの「真実か挑戦かゲーム」だが、英語圏などでは子供からバーの酔っ払いまで、さまざまな人々が遊ぶ定番の暇つぶしである。
指名された人物は初めに真実と挑戦のどちらかを選ぶ。
概ねこういった遊びだ。作中では子供の遊びと揶揄されるが、実際に酒の席などでやってみると案外面白いものである。
これら指定事項を、いずれも拒否する者は腰抜けと罵倒されることになる。
またお題を出す方が無茶苦茶過ぎる行動や、有り得ないほどプライバシーな秘密に触れるのも同様に非難の的であるため、注目されるのは指名された者だけでないのもポイントである。
本作で繰り返されるゲームでは、悪魔は遠慮の欠片もない。触れられたくないプライバシーを次々と暴き、暴力的な挑戦を強いていく。
また失敗者にはcoward(腰抜け)の烙印だけでなく、その命を代償として支払わせるのだ。
現実ではこういった無遠慮な者からは、やがて友人たちは去っていくので注意しよう。
現代感

作中の時代背景は現代で、若者らしくLiveチャットやyoutubeにSNSと、スマホやPCでネットワークサービスをとにかく使いまくるのが多く目立つ。
昨今の作品ではこうした現実を投影したつくりが多く、ときおりそのIT時代感が作品イメージそのものを破壊したり、大きく萎えさせたりもする。
これは若年層の共感を取り込みたいという願望だろうが、その戦略が上手く機能している例は未だに見たことがない。
この手のテクノロジーを頻繁に見せることで成功するのは、それそのものをテーマとした作品か、或いは伏線として残すか程度の使い道しか感じられない。
作品の中でまでフォロワーやグッドボタンの数を気にしたり、煩わしい通知音に悩まされるのは誰も求めていないだろう。
また作中でオリヴィアらがSNSから事件の手がかりを得る場面があるのだが、面白いことに同様に事件を追っている警察は、これらネットワーク上の痕跡から容疑者の足取りを追うことが出来ていない。
どうも本作では警察関係者よりも、インターネットを使い慣れた若者の方が捜査能力が格段に上のように見える。
馬鹿馬鹿しくて愉快な設定だ。
皮一枚

この作品は、ギリギリ皮一枚でスリラーというジャンルに滑り込んでいる。
このボーダーはかなり際どく、本当に紙一重だ。演出や演技をもう一歩間違うと、あっという間にコメディ路線に入ってしまう、寸前の際である。
例えるなら「スクリーム」の脚本中に何の手違いか、「最終絶叫計画」が混じってしまい、なんとか脚本家が自分の記憶を頼りに監督へ耳打ちしているようなレベルだ。
狙ってこの断崖を摺り足で歩いているのなら大したものだ。チープで馬鹿馬鹿しくなるほんの手前で、絶妙なコントロールで笑いをもたらさぬようにストーリーは展開してゆく。
一歩引いて視聴するとそれすらも危ういので、視聴中は没頭を忘れないようにしよう。
感情が暴れる

親友同士のオリヴィアとマーキーの、ルーカスを間にした感情ドラマがひと言で言って凄すぎる。
目まぐるしく暴れ回る感情の暴走列車二両に、我々は振り回されっぱなしだ。
一分前は、
と憤っていたのも束の間、
と、抱き合って涙する。
だが悪魔の巧妙な策謀により再びこの一分後、
めくるめく感情の超特急列車の原因はすべて悪魔の仕業であり、彼女らに本来は罪は無い。
しかし恐ろしい速度で抱き合ったりケンカしたりする十代の友情に、些か我々も疲弊を免れないだろう。
若い視聴者はこのピーキーなハンドリングに共感を得るのだろうか?筆者には少しわからない問題だった。
評価
ブラッドが作中で言ったように、どこまで行っても「子供向け」を脱しない構成は否定出来ない。
感性の若い方にはお勧めの作品と感じた。

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