監獄実験をモチーフにしたと言われるスリラー作、WAIL AWAYをレビュー及び 評価、感想、解説、考察。
あらすじ
トルステン、ノア、パウロの三人は廃屋で実験映像を撮影していた。ナチ扮するパウロはトルステンへ過酷な労働を命じ、ひどい食事を与え続ける。
やがて疲労からトルステンは体調を崩し、撮影は失敗に終わった。落胆するトルステンとパウロは撤収のために片づけを行っていたが、突如としてノアが暴走。彼らを釘打ち機で串刺しにし、鍵の付いた部屋に監禁したのだ。
思いもよらぬ事態にトルステンらは戸惑うが、発狂したノアにはどんな呼びかけも通じない。
かくして始まった本当の監獄実験に、彼らは果たして生きて帰ることが出来るのだろうか。
冗長

開始から50分程度まで凄まじく退屈な時間が続く。スリラー部分だけを見たい方はここまで飛ばすのを推奨する。
ありがちな失敗のお手本のような本作。どんな作品でも冒頭の数分以内で何かしらのワクワク感や、心を惹きつける事件を盛り込むべきだ。
伏線構築や、だらだら背景を語って尺を潰すのは全員にとっての損失で、誰も幸せにならない。
実は物語を理解する上で全く必要の無い部分とは言い切れないこの50分間だが、しかしあまりにも冗長が過ぎる。
もっと簡潔に10分程度で締めくくり、ジェイルストーリーを自負するのであれば、監獄パートを倍増させるべきだったはずだ。
説明無し

単純なアクションであれば説明不要、また上質な編集とストーリー構築を重ねれば、謎解きミステリーや複雑なサスペンスであっても、登場人物らにメタ構造に触れるような説明口調を用いずに物語の趣旨を伝えることは出来る。
そのあたりのぼかしは制作陣の手腕に依る部分が大きい。そして本作でそれは失敗に終わった。
後述する考察を見れば各シーンの意味も少しは理解可能だろうが、まず大半の視聴者にこの意図は九分九厘伝わらないと思う。
あまりにも唐突で理解不能なシナリオ進行。ややシュールじみて、乾いた笑いを誘う。
監禁パート

さて今作の醍醐味である監禁パートだが、ここも盛り上がりに欠ける。
もちろん実際に体験すればその苦しみは想像を絶するとは思うが、そこはエンターテイメントだ。
もっと振り切ってクレイジーな責め苦を与えたり、理不尽で絶望的な仕打ちを強いるべきだろう。
この部分が見たくて手に取った視聴者は、大きく裏切られたと感じるかもしれない。
ゴア表現は微小、常軌を逸した行為ナシ、苦しみへの共感も薄い。
これではコンテンツの存在意義すらも危うい。
評価
時間を捨てることに熱心な方にはお勧めの一作だ。

以下、考察及びネタバレ注意。
監獄の謎

一見すると無茶苦茶で意味不明な映画だったが、一応の解答は用意されている。
ヒントはラストの電話だろう。
マディソンの存在
序盤のカフェテラスで会話する女性、マディソン。彼女の言葉に注目すると、事件の裏側が見えてくる。
概ねこのような内容だ。
このことから、トルステン、ノア、マディソンは何かしらの映像作品を継続的に撮影中であり、それに対して出資を行っている者らが見えてくる。
恐らくマディソンの役割はマネージャー、対外的な部門に属するのだろう。
だが彼らの小規模作品に出資を行う者たちが居るというのは、若干奇妙だ。素人目に見ても、トルステンとパウロのつまらない監獄実験には金銭の生まれる価値が有るように思えない。
とすれば、単純な映画やドラマと異なる、何かしらの特筆次項を持っていると推測するに至る。
殺人ゲームの撮影
答えは簡単で、リアルな殺人を酒の肴に愉しむ、悪趣味な金持ちのための作品だった、という結論だ。
つまりパウロがトルステンの疲労困憊を理由に撮影断念を提言した部分までは織り込み済みの前菜であり、その後の死者を出す監獄ゲームが本番。
一部始終は録画され、裏のルートでスナッフビデオとして販売されるという手筈に違いない。
それを示唆するのがラストシーンでトルステンがマディソンへ連絡した、
という一言。
この場合、パウロが初出演であることがキモだ。
「前人未到の傑作だぞ」と事務所に言われてのこのこ現れた彼は、スナッフビデオに死体役として出演するハメになるとは夢にも思わなかっただろう。
こうした憐れな犠牲者はこれまでも多くの人数居たと思われ、OPで映る目隠しをされた謎の男もパウロの前任である。
ノアがしきりに相談をしていた設計図は監獄の建築に関するものであり、受けた出資で新たなギミックを搭載するための青写真であった。
トルステンらは、殺人ビデオを生業にしているという事実。
ノア
ノアについて解説する。
彼の発狂はもちろんすべて演技で、その過程でパウロを殺害することも台本に書いてあった。
耳鳴りのようなささやき声はミスリードであり、これはトルステンが後付けの編集で入れるであろう部分を本作中にオーバーレイさせていることになる。
だがその後、トルステンに逆襲を受けて殺害される部分については彼も知らなかっただろう。
これはより映像を過激でセンセーショナルに仕上げるための監督によるいわば「アドリブ」であり、台本通りの行動でなかった。
しかし無論、トルステンは最初からノアを殺害する意図だった。その為に彼を要所でかばい、重用してきたのだから。
ロウスターの日記
冒頭で安楽死によって逝ったトルステンの祖父、ロウスター。彼の過去が今回の騒動に深く関わっているように一見見えるが、実はそうでもない可能性が高い。
彼の日記をめくって次の実行プランを練るノアがヒントで、台本で織り込み済みならばこのインスピレーションを受けるかのような仕草は演技であり、実態は無いのだ。
であるならばロウスターが本当にナチであったかすら怪しい。いやそもそも、本当にトルステンの祖父はロウスターで、彼は実在しているのだろうか?
マディソン宅で激昂するトルステンもまた同じで、これは演技の可能性が浮上する。
つまり撮影に関するメタ部分の発言以外は、全てスナッフビデオの序章のために撮影した背景構築で、我々の見ている作品の、概ね全ての部分が虚構の事実だったという二重構造と捉えるのが最も説明のつくパターンになる。
ロウスターもその過去も、最初から存在していなかった。
終わりに
かなりぶっ飛んでいる映画なので考察する人は少ないだろうが、筆者なりの解釈では以上のように収まった。
真相はまったく不明だが、しかし意図してそうしなければ、完全に意味の不明な作品というものは存在しない。それが伝わり辛くとも、そこには何らかの思惑は存在しているのだ。
いや、そう信じたいだけかもしれない。

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