【映画】ファイト・クラブ/謎の多いラストシーンを徹底解剖【考察あり:ネタバレ注意】

サスペンス

公開から20年を経ても色褪せない不朽の名作、Fight Clubをレビュー及び評価、感想、解説、考察。

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あらすじ

不眠症の僕。ある日、重病患者のグループセラピーをハシゴすることで抑圧された感情を解放出来ることに気付き、しばしの安息の日々を手にした。

しかし幸福は長くは続かないものだ。突如現れたマーラというスレた・・・女と行く先々で鉢合わせるようになる。
彼女の物見遊山ぶりはまるで僕自身を表すようで、再び眠れない日々が舞い戻った。

そんな折、出張先の飛行機で不思議な男、タイラーと僕は出会う。
アパートが爆破されて行く当てのない僕を彼は泊めると言い、やがて奇妙な共同生活が始まった。


それから数か月後。眺める高層ビルの爆破を秒読みに、タイラーは僕のクチの中に、デカい銃口をおっ立てて・・・・・いたんだ。

ブッ飛んだストーリー

グループセラピーを受ける僕
不眠症の助けになればと顔を出した睾丸ガン患者のグループセラピーで思わぬ快感を得て、以来病気でもないのに色々なセラピーをハシゴするのが日課



かつてこんなにブッ飛んだ冒頭を描く作品があっただろうか?これをコメディベースでなく、あくまでサスペンス仕立てに落とし込むのが本作の妙技。

通常の発想では辿り着けないような展開と設定を次々と繰り出しては、困惑する我々を嘲笑うようにストーリーは駆け足をみせる。
全く飽きることなく引き込まれるこれらに、原作の着想を得たチャック・パラニュークの天才ぶりを何度も認識させられるだろう。

とにかく非凡、痛快、先が読めない。
あらゆる称賛を得るに相応しい脚本なのだ。

遠慮は無用

抱き合って感情を吐露させる僕

ファイト・クラブは忖度しない。

グループセラピーはしばしば、”しゃぶりあいっこ”(下品で申し訳ない)と揶揄されることがある。

これは同症状を抱えた者同士が心の内をひけらかすことで、互いの感情をありのままに曝け出すことに起因する。
昔気質なアメリカン・タフガイを自称する者にはこうした会合を、「女々しいタマナシ共のお遊戯会」(再び下品で申し訳ない)と見る場合がままある。
他作品でグループセラピーを勧められても、やけに歯切れの悪くなる者が居るのはこうした背景だ。

作中で僕はこれを否定せず、むしろ心の拠り所とした。だがどう見ても睾丸ガン患者の集いは悪意を持って描かれているのは一目瞭然であり、現実で同症状の者からすると不愉快以外の何物でもないだろう。

ファイト・クラブは忖度しない。

僕の勤める大手自動車メーカー。リコール調査部である彼は、明らかに金銭の天秤でリコールの可否を決定している。これは社の意向であり、独断の決定でないのは作中から明らかだ。

この描写を単なるブラックなユーモアと捉えるか、或いは現実への風刺を含んだシニカルジョークであるかの判断は観客に委ねられている。
だが日本人でも一度は、自国のリコールとクルマ絡みの黒いウワサを耳にしたことがあるだろう。
クルマ大国アメリカでも、似たようなケースが一切無いと言い切れるだろうか?

ファイト・クラブは忖度しない。

シーン構成上、絶対に全く必要性のない男性器をこれでもかと映す。サブリミナルで挿し込まれるこれらに、前知識無しでスクリーンを眺めた貴婦人が、口をあんぐりと開けているのが目に浮かぶようである。

本作はあらゆる方面にツバを吐く。いつか見たようなテンプレ構成の映画や、どこかで聞いたような歯の浮く倫理観。既存の常識的な手法が、いかにつまらなくて退屈かを、まざまざと見せつけるかのように。


ファイト・クラブは、忖度しないのだ。

ファイト・クラブのテーマとは

ファイトクラブの活動風景

「ファイト・クラブのテーマは男らしさの体現」というのはよく聞くワードだが、それはあくまで表側の意味合いでしかなく、物語の芯はその部分に無い。

理想の男像を求めたのはあくまで僕の範疇であり、作品の裏に秘めたメッセージ的に正しいのは、

夢見たスーパーヒーローにも大金持ちにもなれなかった、世に溢れる大多数のクズ共に捧げるラブソング



これを強く感じる。

鬱屈した世界で燻ぶっている、圧倒的多数のどうしようもないたち。
君らを導くことも救うことも出来ないが、それでも無視はしない。
カネを持っている成功者だけが絶対正義の世界なんて、間違っているよな。



日本国内であてはめてみよう。

超富裕層は7.3万世帯、富裕層は114.4万世帯。両者を合わせた「純金融資産保有額が1億円以上の世帯」は約122万世帯となります。割合は超富裕層が全体の0.1%、富裕層は全体の2.2%、合計2.3%です。

excite.ニュース



徐々に進行しているとはいえ、貧富差のそこまで激しくない日本ですら富裕層は2.3%にとどまる。
世界規模で見ると、全世界の資産の半分以上を所有するのは、わずか62人の資産家だという。


話を映画に戻そう。

本作には一握りのヒーローや成功者は一切登場しない。
レストランのコックやウェイター、自動車店の店員などのいわゆる、「持たざる者」だ。
また作中の登場人物らは、そのまま映画のメインターゲットでもある。


そんな中、酒場の地下を取り戻そうと乗り込んで来たルーは、唯一立場の違う男だった。
タイラーが彼に必死に温情を頼み込み、あまつさえ仲間に誘ったのは、この絶望的な壁にほんの少しでも風穴を開けたいという意思の現れである。

人は財布の中身でも、ファッションでもない
お前らはこの世のクズだ



このメッセージはエフェクトからも、明らかに第四の壁を超えて語られるメタ的演出であり、現実で物質主義や拝金主義に埋もれる者への苦言である。

あんたたちが言うように、俺たちはなんの取り柄も無いクズだ。目に留まることもないだろう。
でも、確かにここに居るんだ。

そして俺たちは、ムカついてもいる。



これは某作品の引用。
やり場のない憤りに共感する者は、公開から20年を隔てた現在でも多く居るだろう。

CG技術

冷蔵庫裏のコンセント

終盤でこそ影を潜めるが、序盤のCGとそのカメラワークには驚きを隠せない。

通常CGの出番と言うと、

  • ド派手なアクション
  • 危険な爆発
  • 奇怪なモンスター

このような部分に使われる。

しかし本作は、他作品ならたった数秒で済ませる冷蔵庫裏やコンロ周りなどのカットという、全く必要性を感じない部分でのグラフィックス処理を行っているのだ。

またマーラとのベッドシーンも実はCG処理で行われている。モーションブラーとの兼ね合わせもあってか、今までにないような異常さに満ちたベッドシーンの描写に成功しているのだ。


知っての通り、CG制作費用は莫大な予算を要する。本来ならば実写の即席で問題ないような部分への尽力は、制作陣の執念深さを感じずにはいられない。

評価

目を瞑らずに、受け止めるべき名作。当時を知らない若年層にこそオススメ。



過激さや暴力性で忌避する方にも、是非とも勧めたい一作である。

★★★★★
文句無しの満点。
Fight Club (字幕版)
Fight Club (字幕版)




以下、考察及びネタバレ注意。






ラストシーン

汗だくで銃を咥える僕

意味あり気なラストシーンは、額面通りに捉えていいのだろうか?

結論から言うと、

ある範囲からは、僕の妄想である

これがかなり強い。順を追って解説しよう。

妄想癖の示唆

タイラーの足取りを辿って飛行機で各地を飛び回る僕。

訪れたバーでは硝酸の儀式を行ったことすらも忘れており、尚且つ二度目の来店だという。
この時点で不眠症による幻覚や夢遊病の症状はピークであり、彼のフィルターを通して観る我々の視点には、微塵の信頼性もないことが示されている。

拳銃自殺の成功率

こめかみに銃を突き付けて自殺するのは、実は成功率がそこそこ低いことはご存知だろうか。

頭蓋の丸みによって弾道が逸れたり、或いは貫通しても脳の重要器官を破壊せず、存命であることはしばしば見られる。


しかし作中で僕は、銃口を咥えるカタチでの自殺を選んだ。
この場合はどうか?

銃身を固定して脳、もしくは喉を撃つため、最も成功率の高い方法である

これが共通の認識になる。
脳を撃てば即死、仮に喉を撃っても致命傷であるため、間違いなく死亡することは免れない。


だが映画のラストではおかしなことに、僕は顎辺りを吹っ飛ばしたものの、なんとガーゼを頼むほどの余裕を見せている。
また分身であるはずのタイラーは見事に脳天を吹き飛ばしており、一心同体の身であるにしては不整合過ぎる事実だ。

通常ならば咥えた銃口が左顎を吹き飛ばすことはない。この自殺方法は銃の素人であっても、正中線に近い、人体にとって重要器官を狙うポーズであるからだ。


以上から、拳銃自殺は実際には成功しており、少なくとも発砲後の出来事は妄想ではないかという仮説が立つ。

なぜマーラを連れてこれたのか?

強引に止めたバスから連れ出され、クレジットカード会社の爆破を見物させられたマーラ。

だが直近で僕=タイラーが彼女とコンタクトする場面はなく、スペースモンキーの一同が彼らや彼女の位置を特定しているのは奇妙でないだろうか。

そもそも地下のバンには解除したものの、爆薬が積まれていた。爆破予定のビルに見物に来るなど、命を捨てる盟約でも交わしていたというのだろうか。

どう考えてもこの場面は不確かな部分が多すぎる。ならば僕の妄想と考えるのが正しいだろう。

ではどの部分までが妄想なのか?

スペースモンキーは実在したのか?

マーラをラストシーンのビルに連れて来たスペースモンキーたちは、妄想であるという説が有力になった。

しかしそもそも、現実的に考えて彼らが存在していることは正解か?

食堂、ホテル、バー。果ては警察内部にまで勢力を伸ばしたスペースモンキー。
彼らはボブという一名の犠牲を出したものの、驚異的な勢いでテロリズムを繰り広げる。

だがオンボロ屋敷に逗留するチンピラ風情ごとき、警察やFBIが足取りを掴めないのだろうか?

答えはNOだ。

毎日のように破壊行為を繰り返すスペースモンキー。ニュースでまで流れるような暴力集団を一掃するのに、執行機関が手を緩めるはずがない。
また彼らは拠点の移し替えを一度も行わない。素人の暴力集団がプロの尾行を撒けるはずもないのは、自明の理。


ここでラストシーンの実在しないスペースモンキーからヒントを得て、ある仮説が導かれる。

僕やタイラーを慕うスペースモンキーは実在せず、全員が妄想の忠臣だった



これらから、クレジットカード会社爆破の事実すらも妄想であることに繋がる。
存在しない構成員が、爆薬をこしらえることはない。

マーラは存在したのか?

ラストシーンで妄想であると示されたマーラ。

彼女の実在を示す証拠はどうだろう?

車道に立つマーラ

注目すべきは序盤のこのシーン。往来の真ん中で立っているマーラだ。

この直前では道に飛び出したマーラを、クルマが急ブレーキで避ける。
しかしコインランドリーから盗んだ衣類を売り払ったあとの上記シーンでは、往来を走るクルマに一切その様子が無いのである。

これは彼女と連絡先を交換する願望を抱いた僕による、都合の良い妄想であることを示唆する。
冷たくあしらわれた部分までが真実であり、その後の展開は夢幻の彼方の出来事だろう。


バスに乗る直前、レストランでは彼女はこう言った。

面白くてベッドではサイコー。だけどビョーキにはうんざり



これは「こうありたい」と願う僕の理想の男像を指すと思われる。


或いは好意的な解釈では、この会話の時点まではマーラが存在していたというケースも考えられる。
この説が正しいとて、空想のスペースモンキーやその脅威を語る妄想癖に愛想が尽きたのは間違いない。


また原作では最後に、「僕とマーラは天国で出会った」という記述がある。
この意図が映画にも組み込まれているとすれば、

最初からマーラが存在しない
ある段階で無意識にマーラを殺害済(ボブの場面が有力)



このような仮説も立つ。
だが映画をあくまでオリジナルと捉えるならば、上記二例は無視でいいだろう。

ファイト・クラブは実在したのか?

元々は、僕がバーの外で行う、殴り殴られの独り芝居に興味を持った者たちが集ったファイト・クラブ。


だが現実的に考えよう。

自分を殴る奇妙な男を酒の肴にしたとて、それに加わって喧嘩をし、あまつさえ酒場の地下で設立されたおかしな団体に加わるだろうか?

悲しいが、答えはNOだろう。

物質主義に囚われない、持たざる者の集い、それがファイト・クラブ。
だが「こうなればいいのに」という僕の妄想であった可能性が高い。

仮説の根底に

タバコの焦げ跡



この話を覚えているだろうか。

フィルムの繋ぎ目にポルノシーンを入れる、というサブリミナルの説明部分だが、ここで注目すべきは、

大抵の観客は映写機の切り替えなど気付かない



この言葉だ。

ファイト・クラブの映写機はいつ切り替わったのか、そして切り替わった先のフィルムとは?
この部分が僕の妄想説を強く後押しする伏線だった。

すなわち、

我々の気付かぬ内に映写機=ストーリーは僕の妄想の世界へと切り替えられており、しかし大抵の観客はそれに気付かない



という暗喩になる。

どの部分からが妄想なのかは定かでない。しかし大半の部分が、僕の願った世界であると見るのが正しいように思える。


確かな事実は、最終的に僕が拳銃自殺したことだろう。

終わりに

自身の物質主義を否定し、周囲にもそれを願った僕。

彼の独りよがりの世界を垣間見たのが、ファイト・クラブの真相なのかもしれない。

Fight Club (字幕版)
Fight Club (字幕版)

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