ゾンビの溢れる日本を舞台にしたホラーアクション映画、I Am a Heroをレビュー及び 評価、感想、解説。
あらすじ
漫画アシスタントで生計を立てる鈴木英雄。ある日同居する彼女がゾンビ化、これを殺してしまう。
街へ飛び出すと、溢れ出すゾンビの集団。謎のウィルス感染によって、日本は一瞬にして機能を麻痺させた。
道中で出会った女子高生・比呂美とともに富士山頂付近を目指す英雄だったが、やがて比呂美にも感染の痕跡が見られ……。
ネタバレ概略
- 1.日常漫画家アシスタントの英雄。出版社に持ち込んだネームはボツにされ、同居する彼女=徹子ともうまくいかない日々が続く。
- 2.序章ある日アパートを追い出された英雄は、徹子からの電話で部屋に戻る。
そこでドア越しに眺める彼女は、すでに人間の頃の面影の無い「ZQN」だった。 - 3.殺半ば事故により、ZQN化した徹子を殺害してしまった英雄。
慌てて部屋を飛び出すと、東京の街は徐々にパンデミックを起こし始めていた。 - 4.解放仕事場に戻ってみた英雄。そこにかつての風景はなく、握りしめたバットから血を滴らせる同僚・三谷の姿が。
彼は日頃から鬱憤を感じていた雇い主の松尾、及びアシスタントのひとりを殺害したと自供する。
三谷は感染したことで自害するが、既存の社会システムが破滅していく世界を称えていた。 - 5.高速街中で出会った女子高生の比呂美、及び政治家風の男とタクシーで逃走を目論む。
高速道路を富士方面に向かって走るが、道中で政治家がZQN発症。これを振り落とすが、同じくタクシー運転手ものちに発症したことでタクシーは横転し、以後は徒歩を余儀なくされた。 - 6.発覚比呂美の首筋に感染の痕跡を発見した英雄。ここまでは人間性を保っていたものの、やがて彼女は半覚醒状態に陥る。
見捨てるに見捨てられず、比呂美を保護したまま英雄は御殿場アウトレットモールへと辿り着いた。 - 7.籠城アウトレットに集まった数十人の生存者たちと合流する。安息の地かに思えたが、やがて伊浦やその配下たちの異常性に気付く。
のちに彼らは、英雄の持つ散弾銃を奪い取った。 - 8.食糧尽きかける食料に、数人の精鋭による食品保存庫の開拓作戦が行われる。
リーダーの座を追いやられた伊浦と、銃を奪われた英雄も同行を迫られる。 - 9.呼び声調達隊から密かに離脱した伊浦は、管理室からBGMを流す。音につられたZQNたちにより、調達中だった者たちの大半が餌食になる。
- 10.跳躍一方、屋上の籠城組。生前に陸上競技で高跳びをしていたZQNにより、高さによって築いていた防衛線が突破される。
ヤブは比呂美を連れて脱出するも、それ以外のメンバーは皆殺しになった。 - 11.変異逃げ出したヤブと比呂美は伊浦と合流。しかし噛み痕から感染した伊浦はZQN化する。
英雄はこれを、取り戻した散弾銃で葬った。 - 12.挟撃狭い通路で挟み撃ちにあった残りの生存者たち。死力を尽くしてこれを迎え撃つも、次々に犠牲が生まれることになった。
最後に残った高跳びZQNを撃破し、英雄、ヤブ、比呂美の三人だけが生き残った。
原作はコミック

完結済みの原作を基盤に持つ。単純なゾンビとは異なる敵役の存在と、悲壮感を伴いつつもどこか滑稽で奇妙なストーリーが特徴的で人気を博した。
しかし原作と映画版では、この趣は大きく異なる。
日常と非現実の切り分けを敢えて引き伸ばした原作と違い、映画では時間的都合によりパンデミック作品としての毛色が強い。
また内面にフォーカスする描写もほとんど用いられず、体面的な視覚効果が主軸として発揮された。
これらから、原作の信者には受け入れ辛い作品となったことは間違い無いだろう。
原作と異なる点
本作との異なる点は以下。
- 比呂美との出会いが富士山中でなく、都内市街地に
- 徹子(てっこ)が英雄を守るような描写が無い
- 徹子と英雄が同居している設定になっている
- 英雄の妄想癖や精神薄弱についての九分九厘が排されている
- アウトレットでの過程が異なる
- ZQN(ゾキュン、ズキュン)が単純ゾンビとしてしか描かれない
この他にも多岐に渡り、様々な要素が排除されている。
これには原作で主とされた人物の内面や過去の心情、また壊れつつある日常を映画版で細かに記すと、圧倒的に尺が不足することが原因だろう。
実際のコミックではおよそ1巻ぶんほどが崩壊までの過程として描かれており、パンデミック系にしては異色の光景になる。
また両社で決定的に異なるのが、英雄の人間性だ。
コミック版の英雄は、
- 暗闇恐怖症
- 妄想癖
- 嫉妬深い
- 自分の人生という物語ですら、主人公になれない自分を悔やむ
こういった側面を見せる。
共感というよりは、他に類を見ない独自性を有した存在であることが分かる。
ただし彼は崩壊世界において決して弱者ではなく、ZQNとの対峙においては銃の取り扱いが可能であることからも、一般的な生存者よりは高い優位性を持つ。
つまり内面的には他人より大きなハンデを背負いつつも、いざ戦闘になれば頼れる存在ということになる。
また面白いことに、英雄はほとんど成長しない。
ゾンビ作品の登場人物というのは大概が生き延びる過程でトラウマを克服したり、自分の弱い一面を見つめ直したりする。しかし英雄に関しては、作品ラストまで結局何も変わらない男のままで在り続けたのだ。
これら要素によって、彼は唯一無二の存在感を獲得していたと言える。
映画独自要素は?
悪いことに映画版は、時間的都合によって大多数の要素を差っ引くことを重視するあまり、そこへ注ぎ足すべき独自の解釈や設定を付与出来ていない。
展開としていくらかのオリジナル路線は見えたものの、それらも単に尺を間に合わせるための継ぎはぎでしかない。
特に内面的心情を削りまくったおかげで、映像重視の体面的作品と化したのがマズい。
ZQNは単なる肉食死体に、生存者は単なる群衆のひとりに。
最も原作の重視したポイントが粗く削がれてしまったことになる。
以上から単なるテンプレゾンビ映画との差別化が為されなくなった。
これにはひとえに、原作のストーリーラインを追い過ぎたことが挙がるだろう。
もっと大規模に序盤を改変してでも、人物の背景や内面を描き出すことに注力すべきだっただろう。
コミック版のアイアムアヒーローは、ゴアシーンや過激な描写だけがウリでない。
その事実をやや履き違えた感は拭えないだろう。
演出全般

CGの出来映えは良く、アクション場面も一流の技術が見られる。
よって視覚的な部分ではおおいに楽しめることは約束されているだろう。
特にタクシーで高速を走る場面では、原作に準じた流れながら映像ならではの強みが出た部分と言える。
気になるのはBGMの使い方と音量。邦画ではいつも問題となる音楽だが、今作にもそれは当てはまる。
声をかき消すほどの音量で流す緊迫BGMが、一級のはずのシーンを一段チープなものに落とした。
ただし他作品に比べて使用頻度自体は高くなく、アクション部以外の余計なものは出来るだけ排除する姿勢が見られた。
ゴア演出

最も特徴的なのは、邦画にしてはグロテスク表現にこだわった部分だろう。
内臓のディテールなどには触れられないものの、損壊表現はかなり強めになる。
グロ耐性の無い方には視聴は不可能だろう。
ゾンビ作品といえばグロは外せない要素なので、必携にして必定の演出ではあったことは間違いない。原作もかなり気分の悪い表現が多々あるため、ここに配慮した姿勢と言えるだろう。
ただし気になる面として、ここへ求めた訴求性が強すぎる部分だ。
それを表したのが、クライマックスシーンでの大量ZQN戦だろう。
かなり尺自体が長く、およそ決着まで15分を有する大規模戦闘になった。
この映画が体面的であると思われる部分がまさにここで、ゴア自体をウリにしているところだ。
あくまで手段でしかない損壊表現を、目的として据えたこと。
原作が内面を描いたのに対して、皮肉なことに映画版ではその真逆を行ったことになる。
ひたすら魅力の無いキャラクターたち

- 猟銃持った漫画家
- なぜか半覚醒状態でとどまる女子高生
- 妙に半ZQNに肩入れする看護師
内面部分を排したデメリットとして、彼らに対する思い入れが少しも生まれない部分がある。
概ねの人々は単に生き残っただけの群像であり、それは英雄にすら含まれる事実になる。
少しも彼らは愛おしくなく、その生死にすら関心を持てないのが実状だ。
英雄はひたすら無個性のひとりとして描かれ、言い換えるなら自動で散弾銃を発射するオートターレットと変わらない。
なんとも面白味のなくつまらない主人公になったものだ。
ヤブ(小田つぐみ)に関しては登場の意義すらも怪しく、作中で果たした役割を具体的に挙げることすら難しいだろう。
特に比呂美の半覚醒状態については酷く、作品単体で回収することを放棄している。
「原作見てるなら分かるでしょ?」とも言いたげな、投げっぱなしの伏線になってしまった。
これら払拭のためには、やはり大幅に脚本を書き換えたオリジナリティが求められただろう。
比呂美をラストシーンまで感染させなかったり、ヤブの登場を見送ったりと。
原作に忠実すぎる映像構築によって、逆に既存のファンからすらも支持を失う結果になったように思われる。
評価
映像が良いとかゴアが強烈とか、そうした体面的効果だけで良いゾンビ映画が生まれないことはホラー界隈では皆知っている。
わざわざ二の足を踏みに行った理由は不明だが、結果として生まれたのは単に、「日本が舞台のゾンビ作品」という、毒にも薬にもならない無色透明なありきたりさだけだった。
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